みちの道

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『小説』 無題

結子は、今日もお酒に飲まれていた。

 

ワイングラスが、何重にもゆがんで見える。

 

「もう1杯ちょうだい!」

 

と言って、ワイングラスを差し出す。

 

その手は、ゆらゆらと揺れて定まらない。

 

「ちょっと結子ちゃん、飲み過ぎよ」

 

ママが、結子を諭すように言った。

 

「だって今日は休みなんだからいいじゃない」

 

「あんた、休みって言ったって、いつも飲んでるじゃないの、お店で」

 

そう、結子はキャバクラで働いている。

 

毎夜、毎夜のように、お酒に飲まれては、この店にやってくる。

 

「なによ、オカマのくせに」

 

「失礼ね。オカマはステイタスなのよ」

 

ここはオカマバーで、ママは律子だ。

 

結子とは長い付き合いなので、これくらいの事では腹が立たない。

 

「とにかく、今日はもう寝なさい。布団敷いておいたから」

 

「ここの店は、客にお酒を出せないって言うの?」

 

「何がお客よ、ただ同然で飲んでるくせに」

 

「うるさいなあ、出世払いで倍にして返してあげるわよ」

 

「わかったから、とにかく上に上がって寝なさいってば。ちょっと真由美ちゃん、この子上に連れて行ってあげて」

 

「はーい。いつもの部屋でいいのね」

 

「そう、上がってすぐの部屋ね。よろしく」

 

真由美はオカマバーの仲間だ。もちろん元々は男なので、力はある。

 

結子の体くらい、簡単に持ち上げられるのだ。

 

そしてそのまま、結子は2階へ抱えられて行った。

 

 

結子が目を覚ましたのは、正午をとっくに回った頃だった。

 

もちろん今日も、頭が割れるように痛い。

 

いつもと同じ朝だ。いや昼だ。

 

部屋の中まで照りつける日差しが、結子の体から水分を奪っていく。

 

乾き果てた体を潤すため、台所に向かった。

 

蛇口に口を近づけて、そのまま水を注ぎ込む。

 

のどを通り、水が体の中を巡っていくのがわかる。

 

水分が満たされた後で、ふと結子は思った。

 

「このまま、脱水症状で死んでも良かったかも」

 

別に自殺願望があるわけではないが、こんな自堕落な生活から抜け出したかった。

 

この生活から抜け出せるのなら、死ぬのも悪くないかもしれない。

 

結子はそう考えていた。

 

キャバクラで働いているといっても、指名なんてほとんど入らない。

 

ただ、自給をもらいに行っている様なものだ。

 

こんな給料なら、昼間はたらいた方がマシだとも思うが、結子は、お酒がなくては生きて行けない。

 

ただでお酒を飲むために働いているようなものだった。

 

昔は町のスナックで働いていた。

 

スナックは良かった。

 

お客はいくらでも飲ませてくれるし、結子を目当てに来るお客も多かった。

 

カラオケもできるし、適当に席を離れることもできる。

 

ある程度は、好きなお客の所に行けるし、好きな時に息抜きができた。

 

でもキャバクラは、そうはいかない。

 

呼ばれるまで席を離れることはできないし、好きな子にしかお酒をくれない。

 

大勢で盛り上がるのではなく、二人っきりで、疑似恋愛体験を求めてくる。

 

そもそも結子は、キャバクラに来るような男が嫌いだ。

 

女たちは、常に競争心を心に秘めていて、男たちには、下心しかない。

 

じゃあなぜ、働いているのかと言えば、お酒のためとお金のため。

 

スナックで働くよりも、自給が良いからだ。

 

でも逆にストレスがたまり、仕事終わりには、必ずこのオカマバーに来ては酔いつぶれる。

 

結子にとってここは、オアシスだった。

 

誰にも気兼ねなく、素の自分をさらけ出せる場所。

 

女同士の争いもなく、男たちの下心もない。

 

唯一のやすらぎの場所なのだ。

 

 

「結子ちゃん、起きた?ご飯できてるわよ。昼ごはんだけどね」

 

律子ママが、結子を呼びに来た。

 

「お腹すいてないからいいや」

 

と、そっけない声を出す。

 

「ダメよ。いいから降りてらっしゃい」

 

律子ママは、言い出したら引き下がらない事を結子は知っていた。

 

頭をかきむしりながら、しぶしぶ階段を下りて行った。

 

店に顔を出すと、オカマバーで働くオカマ達が、むさぼる様に律子ママの手料理を食べていた。

 

いや、お姉さまと呼ばないと、どすの利いた声で怒られる。

 

ここで働くお姉さま達はみんな、この店の2階に住んでいるのだ。

 

夜は、不健康なギラギラしたライトが照りつける店内も、昼間はカーテンを開けている。

 

肌に刺さるような初夏の日差しが、店内を明るく照らし出していた。

 

心なしか爽快な気分になり、お姉さま達とは離れたカウンターに座る。

 

目の前に置いてあるポットから、冷水をコップに注いだ。

 

一気に飲み干すと同時に、律子ママが、お盆に乗せた食事を運んできた。

 

バランスの取れた、野菜中心の和食だ。

 

律子ママは料理上手で、みんなの健康のために、いつもこうやって食事を作ってくれる。

 

世間のはみ出し者扱いの彼らを全面的に面倒をみていた。

 

「また二日酔い?だから飲み過ぎだって言ったでしょ」

 

また小言が始まったと思い、結子は面倒くさそうに顔をあげた。

 

「とにかく食べなさい。またすぐ仕事なんだから」

 

「食欲ないってば。でもいつも栄養満点のご飯だよね」

 

「そりゃそうよ。ただでさえ不健康な生活してるんだから、食事くらい健康的にしないと体がもたないわ」

 

確かにそうだ。夜に仕事をするのは、体力的に消耗する。

 

人間が本来、休むべき時間、眠るべき時間に働いているのだから。

 

「たまには栄養、摂っておこうかな」

 

「そうよ、食べなさい。そして、元気に今日も働くのよ」

 

「いただきます」

 

律子ママの作った手料理が、体中の足りないものを満たしていくのを感じた。

 

そして、心の栄養も。

 

 

「はあ」

 

結子は、ため息をついた。

 

今日も不毛な夜が、幕を開けようとしている。

 

こんな生活をいつまでも続けて行けるわけがない。

 

体が壊れるのが先か、精神を病むのが先か。

 

歳だって、取っていく。

 

いつまでも、ちやほやされるわけではない。

 

男っていう生き物は、欲望のままに生きている。

 

若い女の方が好きなのだ。

 

肌がすべすべしていて、張りもある。

 

いくらエステ通いできれいにしていても、年齢には勝てない。

 

肌のツヤが良くても、色白でも、素材そのものが、全く別ものなのだから。

 

だから夜の世界で生き残っていく為には、豊富な話題で楽しませたり、若い子には出せない色気を醸し出したり、付加価値が必要なのだ。

 

それを勘違いしているのか、お客と寝るのは、珍しくない。

 

「また昨日、おろしたんだよね」

 

「え?仕事来て大丈夫なの?」

 

「大丈夫、大丈夫。ってゆうか、仕事休んだら、旦那が怪しむじゃん。だから、来るしかないし」

 

こんな会話が、平然と繰り広げられている。

 

男は飽きる生き物だ。

 

男にとって、ベッドに入るまでが一つの目標であり、それを達成できれば、後は流れにまかせるだけ。

 

適当に寝て、適当に次を探す。

 

結局、いかに寝ないで、長くひっぱれるかが勝負だ。

 

ものにできそうと思わせつつ、決して一線は越えない。

 

これができる女は、それなりに外見に恵まれていないと難しい。

 

だから、寝ることで繋ぎとめようとする女がうまれる。

 

いったい、何人の子供の命を殺せば気が済むのだろうか。

 

そんな人間が、まっとうに生きて行けるほど、世の中は甘くない。

 

太陽の下の世界では、どう頑張っても、生きて行けないのだ。

 

 

「結子さん、お願いします」

 

呼ばれて結子は、席を立った。

 

また、不毛な夜が幕を開けたのだ。

 

「結子さんです」

 

ボーイが結子をお客に紹介する。

 

「結子です。失礼します」

 

少しばかり可愛い子ぶって、トーンの高い声を出した。

 

その男性は、結子と同じくらいの年齢だろうか。

 

結子がとなりに座っても、笑顔を見せない。

 

それどころか、結子の方も見ようともしない。

 

結子は、気を惹こうと必死に話題を探した。

 

「はじめまして、よろしくお願いします」

 

相変わらず、正面を向いたままその男性は、うなづいた。

 

「何のお仕事されてるんですか?」

 

初めてのお客への常套句である。

 

「そういう、形式的なことはいいからさ。今日、アフター行けるの?」

 

アフターとは、仕事後にお客と会うことである。

 

「ごめんなさい。私、アフターお断りしてるんです」

 

結子は、そもそもキャバクラでナンバーワンになろうとか、お金をたくさん稼ごうとか考えていない。

 

だから、不毛なアフターは必要ないし、営業もしていない。

 

「何それ、こっちが誘ってんのに、断るキャバ嬢なんているの?」

 

さっきまで無口だったくせに、いきなり嫌味ばかり言ってくる男性に腹が立って来た。

 

「お言葉ですけど、キャバ嬢にも、それぞれ個性とか、ポリシーがあるんです。みんな同じだと思わないでくれませんか?セックスが目的なら、違う女の子にチェンジしてもらいます。誰でもすぐに寝てくれる女の子いますから。でも、あなたの様な人には、興味ないかもしれませんね。一応、好みがありますから。あなたみたいにデリカシーのない人が、長く客になったら迷惑ですしね」

 

結子は、水割りを作りながら、男性の顔も見ないで一気にまくし立てた。

 

ふと男性の方を見ると、笑いながら結子のことを眺めていた。

 

「何がおかしいんですか?どこまで人を馬鹿にしたら気が済むんです?」

 

「いや、可愛いなと思って」

 

さっきまでの無口で人づきあいが苦手そうな雰囲気とは違い、優しくて、女の扱いに慣れているような雰囲気に豹変していた。

 

結子は、この人の目的が何なのか、さっぱりわからなくなってしまった。

 

「からかってるんですか?いったい何が目的なんですか?」

 

「君に会うことが目的で、ここに来たんだよ」

 

何なんだ、この時代遅れなキザなセリフは、と結子は思った。

 

「君に会うことって、私、指名されてないと思いますけど」

 

「指名したことを、知られない様に連れて来てって頼んだんだ」

 

結子は、男性の顔をまじまじと見つめた。

 

「あの、どこかでお会いしましたか?」

 

「君は覚えていないだろうね。かなり酔っぱらってたから」

 

結子が酔っ払うとしたら、律子ママのオカマバーか、自分の家くらいだ。

 

このキャバクラでも、酔っぱらったことは一度もない。

 

以前、手痛い失敗をしてからというもの、人のいない所でしか酔っぱらわない様にしている。

 

律子ママの所以外では。

 

「あの、もしかして、「honesty(オネスティ)」ですか?律子ママの」

 

「そうだよ。思い出した?」

 

「いえ、全然」

 

「酔いつぶれて、トイレで寝てる所に僕がたまたま入ったんだよ。『大丈夫ですか?』って言ったら、『全然大丈夫です。』って言ってたけど、大丈夫そうじゃないから、抱きかかえて律子ママの所に連れて行ったんだよ。聞いてない?」

 

そう言えば、そんな話を聞いたような気がする。たいした話じゃないから、すっかり忘れていた。

 

「ごめんなさい。ご迷惑おかけしたんですね。お礼もしないですみませんでした」

 

「いいんだよ、そんなの。ただその時に、君が耳元でささいた言葉がずっと気になっていてね。それで、今日来たんだ。」

 

「ささやいた言葉?私、いったい何て言ったんですか?」

 

「それはまだ、言えないな。もう少し、確認したいことがあるんだ」

 

「確認したいこと?教えて下さい。私、何て言ったんですか?」

 

「じゃあ今日、アフター行ってくれる?」

 

結子は考えた。前に会っていたのが本当だとしても、ささやいた言葉があるなんて、嘘かもしれない。

 

アフターに誘って、寝ることだけが目的なのかもしれない。

 

そうだとしても、このままでは気になって眠れない。

 

一度気になったら、頭からその事が離れなくなるタイプなのだ。

 

「わかりました。でも、他のお客さまには気づかれないようにしてくださいね。私を目当てに来る人なんて、そんなにいませんけど、他のお客さまは断ったのに、アフターに行ったことがバレたら面倒なので」

 

「了解。じゃ、飲もっか」

 

掴みどころのない、不思議な男性だと結子は思った。

 

 

店が終わり、女の子たちがフロアーへ集まって来た。

 

体験入店の女の子たちのお給料を支配人が渡している。

 

他の子たちは、送りの車を待っていた。

 

「結子さん、今日私たち後の便でいいから、先乗って」

 

雰囲気からして、どうやら、これから飲みに行くらしい。

 

「今日はちょっと用事があるから、このまま帰るね」

 

あえて結子は、アフターと言わなかった。

 

もし、アフターがあるなんて言ったら、どの客かと根掘り葉掘り聞いてくるに違いないからだ。

 

彼女たちは、絶対に負けたくないという競争心のかたまりなので、結子にアフターが入ったとなれば、何を言ってくるかわからない。

 

まったく面倒な人種なのだ。

 

結子は、何か聞かれる前に、そそくさと店を出た。

 

彼女たちとばったり鉢合わせしたら困るので、絶対に行きそうもないショットバーへ行く事にした。

 

そこは席数も少なくこじんまりとしていて、大勢で来るわけがないからだ。

 

バーに入ると、マスターが「いらっしゃいませ」と気取った声を出す。

 

「待ち合わせなんですけど」

 

「こちらへどうぞ」

 

奥の席を案内された。

 

ここなら、マスターに話を聞かれることもなく、話せると思った。

 

「何かお飲みになりますか?」

 

彼を待とうか迷ったが、仕事終わりのお酒ほどおいしいものはない。

 

誘惑に負けて、ゴッドファーザーを注文した。

 

ウィスキーとアマレットのカクテルだ。

 

いつもなら最初は、無難なカクテルにするところだが、今日は込み入った話になりそうだったので、きつけに一杯やることにした。

 

程なくして、彼が店にやってきた。

 

彼が席に着くと同時に、ゴッドファーザーが運ばれてきた。

 

「ずい分強いお酒を飲むんだね」

 

目を丸くして、結子を見る男性を見ることができなかった。

 

「ちょっと今日は、そんな気分で」

 

この気持ちはいったい何だ?と結子は思った。

 

酒豪だと思われたくない、と反射的に思ったのだった。

 

でも、泥酔している所を見られているのだから、どちらにしても同じなのだ。

 

「じゃあ、僕も同じものを」

 

「お酒、強いんですか?」

 

「特に強いわけじゃないけど、弱くもないと思うよ」

 

「そうですか」

 

「君と同じものを飲んで、どれくらい酔うのか、試してみたいんだ」

 

変わった人だと思った。

 

でもなぜか、嬉しかった。

 

二人はとりあえず乾杯をして飲み始めた。

 

「それで、もう少し確認したいことって何ですか?」

 

結子は、気になって、単刀直入に質問をした。

 

「その前に、僕の名前言ってなかったよね。あんな事になったから、言うのを忘れていたよ」

 

「そうですね。お名前は?」

 

「浜木次郎。35歳。普通の商社の会社員」

 

「意外です。何か、おじさんみたいな名前ですね」

 

「君は、本当に直球で来るよね。僕じゃなかったら、けっこう傷つくと思うけど」

 

「ごめんなさい。悪気はないんですけど、つい思ったことが口から出ちゃうんです」

 

「うん、知ってる。ところで、先走るのは口だけなの?初めて会った人と関係を持ったことってある?」

 

結子は、戸惑った。やっぱりそっちが目的だったのか、と幻滅した。

 

少し、気に入り始めていたのに。

 

「やっぱりそれが目的なんですね」

 

「誤解しないで。これが確認したかったことだよ」

 

「どうして、そんなこと聞くんですか?あなたには関係ないと思いますけど」

 

結子は昔、ホームレスだった。

 

ホームレスと言っても、ネットカフェを転々としていた。

 

食べるお金がなくなると、体を売っていたのだ。

 

でもこれは、誰にも言っていないし、知られたくない。

 

もちろん、律子ママは知っている。もしかして、律子ママが?

 

「答えてください。誰がそんなこと言ったんですか?」

 

「律子ママだと思ってるんだろ。違うよ。君が言ったんだ」

 

「私が?」

 

「そうだよ、あの時、トイレから抱きかかえて出た時に、君は言ったんだ。『私をいくらで買ってくれる?』ってね」

 

結子は愕然とした。

 

まさか酔いつぶれて、そんな事を口走ってしまうとは。

 

封印したはずの過去が、開いてしまった瞬間だった。

 

「あなたに、いや、浜木さんには関係のない事ですけど、教えてあげます。そうです。初めて会った人と寝たことありますよ。これで満足ですか?何が目的ですか?」

 

「落ち着いてよ。僕は別に、君を傷つけるために言っているわけじゃないんだ」

 

「じゃあ、何ですか?体売ってた過去がある女に何がしたいんですか?」

 

浜木はうつむいて、考えている様子だった。

 

「結子ちゃんのこれからの人生を、僕に売ってくれないかな」

 

結子は、浜木が何を言ったのか、理解するまでに時間がかかった。

 

 

ようやく結子は、浜木の言った言葉を理解した。

 

しかし、意味は全くわからなかった。

 

「どういう意味ですか?私を買いたいんですか?これから先、あなたの娼婦になれとでも言うんですか?そういう女だから、簡単にできると思ってるんですか?」

 

「そんな意味じゃないよ。結子ちゃんはさあ、あ、結子ちゃんて呼んでいいよね」

 

「もう呼んでますし、いいですよ」

 

結子は、ぶっきらぼうに答えた。

 

「結子ちゃんは、本当は、今のような生活から抜け出したいって思ってるでしょ」

 

「思ってますよ。だから何ですか?私の表情を見れば、誰だってわかるでしょ、それくらい」

 

「じゃあ結子ちゃんは、結婚しないつもりなの?多分、僕と同じくらいの年齢だよね」

 

結子は何だか、ひどく腹が立ってきた。

 

「私はもう歳だし、過去にそんな事があったなら、結婚できるわけがないって事ですか?」

 

浜木は、急にだまり込んでしまった。

 

結子は、ちょっと言いすぎたかな、と反省した。

 

でも、結子のことを傷つける様なことばかり言うのだから仕方ない。

 

話をしていない時の浜木は、いい人そうで、けっこう格好いい。

 

結子は、ぼんやりと浜木を見つめていた。

 

するとその視線が、浜木と重なった。

 

結子は、すごくドキッとしてしまった自分が恥ずかしくなった。

 

そして浜木は、おもむろに話し出した。

 

「僕、けっこうひどい事言ってるよね。ごめんね」

 

「・・・。」

 

「本当に傷つけるつもりはないんだ。ただ、もうキャバクラなんかで働いて欲しくなくて」

 

「私がどこで働くか、浜木さんにどうして関係あるんですか?」

 

心なしか、少し優しい口調になってしまった。

 

「僕のそばにいて欲しくて」

 

「私のこと、好きってことですか?」

 

「それが良くわからないんだ」

 

「わからないのに、そばにいて欲しいなんて言うんですか?」

 

「だから、結子ちゃんの人生を買いたい。ダメかな」

 

「人の心は、お金では動かないですよ。少なくとも私は」

 

「知ってる」

 

知ってるって、どういう意味だろう。さっきから、たまに言う「知ってる」という言葉が、結子は気になった。

 

「僕は、結子ちゃんを養えるだけの収入はあるし、ただ、いてくれるだけでいいんだ」

 

「ただ、いるだけ?」

 

「そう、家事もセックスもしなくていい。だから、僕のそばにいてくれないかな。結子ちゃんの人生が欲しいんだ」

 

こんな事を言ってくれる人は、たぶんもう、私の人生では現れないだろう、と結子は思った。

 

ただ、なんでそんなに結子にこだわるのか、その理由が知りたかった。

 

 

「わかりました。じゃあ、私の人生、いくらで買ってくれますか?」

 

結子は、この浜木という男が、いったい何を考えているのか知りたくなった。

 

「生活費は、すべて出すから、うちに来て欲しい」

 

「その条件では、認められません。ちゃんと、金額で示してください」

 

不毛な日々を過ごしていた結子は、新しい仕事を見つけたと思えばいいと、割り切ることにした。

 

浜木は、考え込んでいた。

 

いったいいくらと言えば納得してもらえるのか、決めかねている様子だった。

 

「1億。」

 

「1億?それはちょっと・・・」

 

「と、言いたいところだけど、7,680万。月に20万円として、65歳までの金額よ」

 

「家賃とか、生活費を差し引いてもらえないかな。そうしないと、さすがに厳しんだ」

 

浜木は、自分が言いだしたこととはいえ、思いもかけない展開に戸惑っていた。

 

「わかった。じゃあ、3,840万でいいわ」

 

それでも浜木にとって、楽な金額ではなかった。

 

「一括では払えないけど、どうすればいい?」

 

「月に10万円くれればいいわ。それを毎月、65歳まで」

 

「それなら、何とか大丈夫だけど、65歳になったらどうするの?」

 

「これは、ビジネスよ。65歳が定年だから、その後は、好きに暮らすわ」

 

結子にはもともと、家族などいない。

 

ずっと貧乏で、食べるものも、ろくに与えられなかった。

 

父も母も、それぞれに不倫相手がいて、結子はいつも、たった一人で、空腹と戦っていた。

 

ある日、父が「これで好きなものを買いなさい」と言って、千円札をくれた。

 

今までの中で、一番やさしい顔をしていた父を見て、結子は嬉しくなった。

 

それが、父との最後の会話になるとも知らずに、結子は、喜んで買い物に出かけた。

 

大好物の鶏のからあげを買って、家に戻ると、家の中はめちゃくちゃに荒らされていた。

 

父が借金をして、取り立てに来た男たちが、金目のものを持って行ったのだと、母から聞かされた。

 

母は、ブラウスのボタンが外れ、胸があらわになっていた。

 

「あいつら、あたしが寝てやろうってのに、目もくれないんだ。もしその気があるなら、風俗で稼げって言うんだよ。なんであたしが、あんな男のために、体売らなきゃならないんだよ。冗談じゃない」

 

母は、怒りに震えていた。

 

その怒りは、父に対するものでも、家を荒らされたからでもない。

 

自分を女として見てもらえなかったからだ。

 

母は、どんな男でも、口説き落とせるという自信があった。

 

母にとって、体をさらすことは、たいしたことではなかった。

 

むしろ、男が自分の体を求めてくることが、最高の喜びだったのだ。

 

自分には価値がある、自分を必要としている人がいる、と母が唯一、実感できる瞬間だったから。

 

その夜、母は男と家を出て行った。

 

次の日も、その次の日も、母は帰って来なかった。

 

空腹と寂しさを抱えた結子の傍らには、あの日のからあげが、転がっていた。

 

父と母がいなくなった数日後、小学校へ来ない結子を心配して、担任の先生がやって来た。

 

結子は、担任の先生が嫌いだった。

 

世間体とか、保護者とか、つまらない事ばかりに神経を使う、くだらない先生だと思っていたからだ。

 

教師としては、当たり障りのない、ありふれた事しか言わない。

 

みんなは、先生が大好きだったが、結子だけは違った。

 

それを感じ取ったのか、結子には厳しかった。

 

わざと難しい問題をやらせ、できなかったら立たされた。

 

だからこの日も、校長先生に言われて、仕方なく来たのだろう。

 

先生とは、一言も言葉を交わさず、すぐに児童相談所の職員に連れて行かれた。

 

その後も両親が姿を現すことはなく、結子は、施設へ入れられた。

 

そんな結子だから、人を信じるという感情は、とっくの昔に葬った。

 

だから、浜木の申し出を受け入れることができたのだ。

 

人を信じないということは、人に傷つけられることはないということだから。

 

結子にとってこれが、自分を守る最良の手段なのだ。

 

 

「じゃあ、これで契約成立ですよね。明日から行きますので、住所をメールで送っておいて下さい」

 

浜木は、口をぽかんと空けて、あっけにとられていた。

 

結子の押しの強さに、面くらっている様子だった。

 

テーブルの上のゴッドファーザーを一気に飲み干して、千円札を置くと、バーを出て行った。

 

取り残された浜木のところへ、マスターがやって来る。

 

「お飲み物をお持ちしますか?」

 

浜木は我にかえり、ファジーネーブルを注文した。

 

「かしこまりました」

 

と言うと、空いたグラスをトレーに乗せ、手慣れたしぐさでテーブルをひと拭きすると、カウンターへ戻って行った。

 

浜木には、結子の考えていることが、まるで読めなかった。

 

しかし、もともと無理な申し出をしているのは浜木の方だ。

 

楽観的な性格の浜木は、深く考えるのをやめ、結子が来てくれることを素直に喜ぶことにした。

 

 

 

結子はひとり、夜の街を歩いていた。

 

声をかけてくる男をあしらうのにも、慣れっこだった。

 

しばらく歩いて、見慣れたネオンの店に入る。

 

「いらっしゃ~い。なんだ、結子ちゃんか」

 

昼間、むさぼる様に律子ママのご飯を食べていたお姉さまが出迎える。

 

昼間はまるで、休日のおっさんの様な服装だったが、今は、きれいに着飾って厚化粧をほどこしている。

 

「なんだとは何よ」

 

「はいはい、わかりました」

 

軽くあしらわれ、お姉さまはお客のいる席へ戻って行った。

 

いつもの様に、カウンターに腰かける。

 

結子は、店内を見回した。

 

お客の前で、楽しそうに笑うお姉さま達。

 

作りもののおっぱいを、恥ずかしげもなく触る男たち。

 

結子は、酔っぱらっていない状態で、この店に来るのは初めてだった。

 

ここは、男の下心も、女の嫉妬もないオアシスだと思っていたが、そうでもない。

 

女のおっぱいを触ることができない男たちが、その欲求を疑似的に満たしているにすぎないのだ。

 

「どいつもこいつも、汚くて汚らわしい。この世から、性欲なんて、なくなればいいのに」

 

結子はそう思いながら、2階へ上がって行った。

 

いつもの部屋に入り、ベッドにもぐり込む。

 

そのままいつしか、眠ってしまった。

 

目を覚ますと、夜が明けはじめている。

 

2階は静まり返っているが、店からは、まな板をトントンする音が聞こえてきた。

 

階段を下りて店をのぞくと、律子ママが食事の支度をしていた。

 

いったい律子ママは、いつ眠っているのだろうと、結子は思った。

 

味噌を箸で溶かしながら、結子の気配に気づいたママが振り返った。

 

「結子ちゃん、おはよう」

 

無断で2階に泊まってしまったのに、何もなかった様に声をかけてくる。

 

「ママ、勝手に2階に泊まっちゃってごめんなさい」

 

律子ママは、みそ汁の味見をして、コンロの火を止めた。

 

「結子ちゃん」

 

ちょっと怒った様な顔をして、こちらを向く。

 

やっぱり怒られるのかな、と結子は構えた。

 

「おはようって言われたら、おはようって返すのが礼儀でしょ」

 

結子は、なぜ挨拶のことで怒られているのか理解できなかった。

 

困惑している結子に向かって、律子ママは続けた。

 

「挨拶なんて、どうでもいい事かもしれないけれど、一番簡単で、一番難しいコミュニケーションだと思うの。だって、今の世の中には、こんなに簡単な事ができない人が多いでしょ。挨拶ってね、見知らぬ人とでも、何の違和感もなく交わすことができる、唯一の言葉なの。だっていきなり、昨日の夜ご飯何食べた?なんて聞けないけど、こんにちは、なら誰にでも言えるでしょ。言われた方は、驚いて返してくれないかもしれないけど、挨拶をされて悪い気分になる人はいないはずよ。そう思わない?」

 

結子は今まで、考えたこともなかった。

 

口が半開きになっている結子に向かって、律子ママは続けた。

 

「私思うのよ。挨拶ができない人は、仕事もできない人だって。挨拶ができない人は、良い人間関係を築けない人だって。挨拶は、世界を明るくしてくれる言葉なの。だから結子ちゃんにも、挨拶がちゃんとできる人になってほしい。いいわね」

 

「わかりました」

 

結子は、素直に返事をした。

 

確かに律子ママの言っていることは一理ある。

 

プライドが高くて、自分が偉いと思っている人は、挨拶をされても、挨拶は自分からするものじゃないと思っている。

 

その人は、みんなから好かれているかと言うと、まず嫌われていると言って間違いない。

 

その人の地位やお金に人が集まっているだけであって、何もなくなったら、誰一人として、そばに来なくなるのだろうと思った。

 

「さあ、お腹すいたでしょう。一緒にご飯食べましょう」

 

結子にこんな事を教えてくれる人は、今までいなかった。

 

律子ママだけは、信頼してもいいのだと感じた。

 

 

結子と律子ママは、向かい合って朝食を食べていた。

 

誰もいない店内。

 

お姉さま達は、まだ2階で眠っている。

 

その時、結子の携帯が鳴った。

 

浜木からのメールだった。

 

「誰から?」

 

律子ママに聞かれて、結子は今までのいきさつを話した。

 

「そう、あの時の」

 

「ママは、浜木のこと覚えているの?」

 

「ええ、覚えているわよ。いい男だったもの」

 

「どんな人だった?」

 

「一見、普通の好青年に見えるけど、何か胡散臭い雰囲気があったわねえ。悪い人には見えなかったけど、クセがあるっていうのか、心に闇を抱えているというか」

 

それは結子も感じていた。

 

その雰囲気は、どことなく結子と同じにおいを感じたのだ。

 

「だから私、今日から浜木のところに行くから、しばらく来られないかもしれない」

 

「あんた、本当に大丈夫なの?」

 

「わからない。でもこのままキャバクラで働いていても、未来はないし、お見合い結婚したと思えば、悪くないかなって」

 

「そりゃ、あんたももう若くないんだから、そろそろ結婚しないと貰い手がいなくなるものね」

 

「結婚はあきらめてたから、それは考えてなかったけど、もうキャバクラで働くのも、限界の年齢だからね。それに、働かないで10万円もらえるなんて、良い生活でしょ?」

 

「そりゃそうだけど、うまい話には、何か裏があるものよ」

 

「ママは意外と古い考えなのね。今は、何でもありの世の中よ。うまい話くらい、そこらじゅうに転がっているって。犯罪さえ犯さなければ、何をしたっていいのよ」

 

「悪いけど、私には理解できないわ」

 

これ以上話すと、律子ママのご機嫌を損ねそうだったので、結子は話を切り替えた。

 

「でも昨日、初めて酔っていない時にこの店に来たけど、お姉さま達も大変だよね。私てっきり、ゲイのお客ばかりだと思ってたけど、ただのおっさん相手じゃない。しかも下品なお客ばっかり。私、尊敬しちゃうな」

 

律子ママが、また険しい表情になった。

 

結子はまた、自分がまずい事を言ってしまったのだと、直感した。

 

「結子ちゃん、人間にはね、羽目を外す場所が必要なの。いつも張りつめていたら、いつかプチっと糸は切れるものよ。この店で糸を緩めることができるなら、そんな嬉しいことはないわ。みんなそう思って仕事をしているの」

 

確かに、男という生き物は、女の前では見栄を張る。

 

でも、お姉さま達は、どんな人も大きな心で受け入れてくれるのだ。

 

もともと性別が同じもの同士、理解しあえるのかもしれない。

 

「みんな、色々な思いを抱えてここに来るんだね。それをお姉さま達が受け止めてるんだ」

 

「そんな所かしらね。でも、この店に来る人は、みんないい人ばかりよ。時々、悪ふざけしすぎる人もいるけど、そういう人は、たいてい本当は気が弱い人なの。それ位、可愛いものよ」

 

「さすが律子ママは、肝がすわってるね」

 

「何言ってるのよ。こんなか弱い乙女をつかまえて」

 

「それはいくら何でも無理があるでしょ」

 

「あら、失礼しちゃうわ」

 

こんな会話も、しばらくできないのかと思うと、何だか少し、寂しい気がしてきた。