みちの道

新しい自分を見つけに行こう

Love Your Life

明日が今日よりハッピーになる情報|美容・ダイエット・恋愛・人生

『小説』 無題 9

「じゃあ、これで契約成立ですよね。明日から行きますので、住所をメールで送っておいて下さい」

 

浜木は、口をぽかんと空けて、あっけにとられていた。

 

結子の押しの強さに、面くらっている様子だった。

 

テーブルの上のゴッドファーザーを一気に飲み干して、千円札を置くと、バーを出て行った。

 

取り残された浜木のところへ、マスターがやって来る。

 

「お飲み物をお持ちしますか?」

 

浜木は我にかえり、ファジーネーブルを注文した。

 

「かしこまりました」

 

と言うと、空いたグラスをトレーに乗せ、手慣れたしぐさでテーブルをひと拭きすると、カウンターへ戻って行った。

 

浜木には、結子の考えていることが、まるで読めなかった。

 

しかし、もともと無理な申し出をしているのは浜木の方だ。

 

楽観的な性格の浜木は、深く考えるのをやめ、結子が来てくれることを素直に喜ぶことにした。

 

 

 

結子はひとり、夜の街を歩いていた。

 

声をかけてくる男をあしらうのにも、慣れっこだった。

 

しばらく歩いて、見慣れたネオンの店に入る。

 

「いらっしゃ~い。なんだ、結子ちゃんか」

 

昼間、むさぼる様に律子ママのご飯を食べていたお姉さまが出迎える。

 

昼間はまるで、休日のおっさんの様な服装だったが、今は、きれいに着飾って厚化粧をほどこしている。

 

「なんだとは何よ」

 

「はいはい、わかりました」

 

軽くあしらわれ、お姉さまはお客のいる席へ戻って行った。

 

いつもの様に、カウンターに腰かける。

 

結子は、店内を見回した。

 

お客の前で、楽しそうに笑うお姉さま達。

 

作りもののおっぱいを、恥ずかしげもなく触る男たち。

 

結子は、酔っぱらっていない状態で、この店に来るのは初めてだった。

 

ここは、男の下心も、女の嫉妬もないオアシスだと思っていたが、そうでもない。

 

女のおっぱいを触ることができない男たちが、その欲求を疑似的に満たしているにすぎないのだ。

 

「どいつもこいつも、汚くて汚らわしい。この世から、性欲なんて、なくなればいいのに」

 

結子はそう思いながら、2階へ上がって行った。

 

いつもの部屋に入り、ベッドにもぐり込む。

 

そのままいつしか、眠ってしまった。

 

目を覚ますと、夜が明けはじめている。

 

2階は静まり返っているが、店からは、まな板をトントンする音が聞こえてきた。

 

階段を下りて店をのぞくと、律子ママが食事の支度をしていた。

 

いったい律子ママは、いつ眠っているのだろうと、結子は思った。

 

味噌を箸で溶かしながら、結子の気配に気づいたママが振り返った。

 

「結子ちゃん、おはよう」

 

無断で2階に泊まってしまったのに、何もなかった様に声をかけてくる。

 

「ママ、勝手に2階に泊まっちゃってごめんなさい」

 

律子ママは、みそ汁の味見をして、コンロの火を止めた。

 

「結子ちゃん」

 

ちょっと怒った様な顔をして、こちらを向く。

 

やっぱり怒られるのかな、と結子は構えた。

 

「おはようって言われたら、おはようって返すのが礼儀でしょ」

 

結子は、なぜ挨拶のことで怒られているのか理解できなかった。

 

困惑している結子に向かって、律子ママは続けた。

 

「挨拶なんて、どうでもいい事かもしれないけれど、一番簡単で、一番難しいコミュニケーションだと思うの。だって、今の世の中には、こんなに簡単な事ができない人が多いでしょ。挨拶ってね、見知らぬ人とでも、何の違和感もなく交わすことができる、唯一の言葉なの。だっていきなり、昨日の夜ご飯何食べた?なんて聞けないけど、こんにちは、なら誰にでも言えるでしょ。言われた方は、驚いて返してくれないかもしれないけど、挨拶をされて悪い気分になる人はいないはずよ。そう思わない?」

 

結子は今まで、考えたこともなかった。

 

口が半開きになっている結子に向かって、律子ママは続けた。

 

「私思うのよ。挨拶ができない人は、仕事もできない人だって。挨拶ができない人は、良い人間関係を築けない人だって。挨拶は、世界を明るくしてくれる言葉なの。だから結子ちゃんにも、挨拶がちゃんとできる人になってほしい。いいわね」

 

「わかりました」

 

結子は、素直に返事をした。

 

確かに律子ママの言っていることは一理ある。

 

プライドが高くて、自分が偉いと思っている人は、挨拶をされても、挨拶は自分からするものじゃないと思っている。

 

その人は、みんなから好かれているかと言うと、まず嫌われていると言って間違いない。

 

その人の地位やお金に人が集まっているだけであって、何もなくなったら、誰一人として、そばに来なくなるのだろうと思った。

 

「さあ、お腹すいたでしょう。一緒にご飯食べましょう」

 

結子にこんな事を教えてくれる人は、今までいなかった。

 

律子ママだけは、信頼してもいいのだと感じた。