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教育困難校で働く女性教員のブログが話題に。誰の責任なのか?

「教育困難校」と呼ばれる高校の女性教員が、日頃の鬱憤をブログでぶちまけて話題になっているらしいですね。

いわゆる「底辺校」と呼ばれる学習意欲・学習レベルが低い生徒が集まっている学校のことを「教育困難校」と言うんですね。

家庭環境にも問題があったり、貧困層の親も多いようです。

 

学校や生徒に対する世間の見方は批判的なものが多いですが、共感的な意見もあります。

 

「だったら廃校にしろ」とか「そんな猿みたいなガキは放っておけばいい」という意見から、「生徒たちは感情豊かで優しい子も多い」という意見まで様々です。

 

この女性教員に対してのコメントを見てみると、共感して「苦労を察します」といった意見もあれば、「嫌ならさっさと辞めればいい」という意見まであります。

 

みんな匿名で他人事となれば、好き勝手に言いたくなるのでしょう。

 

教育困難校の問題は誰に責任がある?

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この現状に対する責任は、いったい誰にあるのでしょうか。

 

子どもを育てる環境も整っていないのに、子どもを産んでしまった親の責任なのでしょうか。

高校なんて行きたくなければ早く働けばいいのに、学校で悪態ついてる生徒が悪いのでしょうか。

教員に丸投げの学校や国が悪いのでしょうか。

 

それぞれに責任があると思う反面、何だかどれも違うような気もします。

いちばん悪いのは、教育困難校のことを問題視する「傍観者」だと思います。

 

いろいろな人が世の中にはいて、共感できる人と共感できない人がいるのは当然です。

エリートから中流階級、低所得者に貧困層と、日本は格差社会になっています。

その中でも底辺に位置すると言われている彼らは、将来の貧困層予備軍であるとも言われています。

 

彼らは生まれた時から苦労を強いられているのかもしれませんが、生まれた環境を恨んでも未来は変わりません。

誰のせいにもできないし、残念ながら自分の人生は自分で変えるしか方法はない。

それは自分自身で解決するしかないでしょう。

 

でも他人が彼らを侮蔑したり、自分よりも身分が低いと考えるのは違うでしょう。

大学を出ていても頭の悪い人間はいるし、中卒でも事業で成功している人はいる。

教育困難校の問題以前に、人に不当な優劣をつける思考に問題があると言えると思います。

 

能力の優劣はあってもいい。

それが当然だし、ない方がおかしいです。

でもいろいろな事情がある中で、教育困難校にしか行けなかった人たちに特別な優劣をつけるのは間違っていると思わざるを得ません。

 

人は自分よりも不幸な人を見つけては、「自分の方がマシだ」と思いたがるものです。

他人の不幸は蜜の味で、「こんな人間はクズだ」と言う卑怯者も、「彼らも頑張っている」と言う偽善者も、結局はほとんどの人が傍観者でしかありません。

 

ブログで発信した女性教員でさえも、けっきょくは傍観者の一人です。

教員と言う職を辞せば、彼らと関わる機会はなくなるわけですから。

だから当人以外の人間は、ワタシも含めて全員が彼らをつくり上げたと言えるのかもしれません。

 

女性教員も「他人事感」を拭いきれない

ではこの女性教員の苦痛を考えてみます。

 

実際に自らも教育困難校で働いている教員は、苦労がわかるのでしょう。

お互いに傷をなめ合うのは自由ですが、ブログにアップした女性教員の口調は、あまりにも乱暴で教養に欠ける印象を受けます。

 

それくらい苦労しているという気持ちはひしひしと伝わってきます。

並大抵のことではないでしょう。

 

でもやはり「教員」という職を選んだ時点で、そのような学校に行かされる可能性はわかっていたはずです。

このような学校があることは知っていたはずですから。

 

でも「まさか自分が行くことになるとは」と思っていたことが、傍観者である証拠と言わざるを得ません。

 

ニュースでは頻繁に殺人事件が報道されています。

テレビを観ながら「怖いね~」と言う人は、「自分には起こるはずのない出来事」だと思っているのです。

 

そして自分の身に起きた時は、「自分の苦労を誰もわかってくれない」と嘆くのです。

生きていればですが。

 

人は人、自分は自分。憎みもせず同情もせず。

けっきょく人は、自分が一番かわいいのです。

家族でさえも簡単に見捨てる場合もあるでしょう。

いくらキレイ事を言っても、その場になってみないと気づかないことです。

 

人は一人で産まれ、一人で死んでいく。

この運命は変えられないのです。

 

愛情は人の心を動かしますが、誰にでも愛情を注げる人なんてほとんどいません。

愛情を注ぐ対象以外に対しては、憎んだり、同情したり、優しくしたりします。

でも本当の意味で、その人の気持ちにはなれません。

 

だったら人は人、自分は自分で生きていくしかない。

理想を言うならば、人を憎むこともせず、同情することもせず、「個と個」としてお互いを見るしかないのです。

 

本当は「傍観者」ではなく、全ての人が「当事者」

誰が悪いわけでもない。

誰が正しいわけでもない。

そもそも他人が介入する問題もでもない。

 

教育困難校で働くことが嫌なら辞めればいいし(この女性教員は辞めるそうですが)、教育に燃えている先生は続ければいい。

 

教育困難校の生徒は嫌なら学校を辞めればいいし、働いて低所得になっても自分の責任。その親の元に生まれたことは変えられないし、納得できないなら身を削ってでも勉強すればいい。

 

誰がどんな人生を歩もうと、その人の人生。

女性教員を批判する人も同情する人も、結論からすると好きに意見すればいい。

 

じゃぁ何が言いたいかというと、彼らのような生徒をつくり上げたのは、彼ら自身の責任であり、社会の責任でもあるということ。

傍観者は、本当は当事者であるということに気づいていないのです。